※本コラムは昔運営していた川口能活ファンサイト(深海)で掲載していたコラムを再掲したものです。一部内容が古い可能性がありますがご了承ください。
12月6日--衝撃的なニュースが目に飛び込んで来た。「ジュビロ磐田、川口能活を獲得」
欧州に留まることに意味があるといい続けていた川口が一転、Jリーグに帰ってくると聞き、信じられない気持ちがあった一方で、正直ほっとしている自分がいた。やはり川口の試合を見たいって、この3年間はずっと思い続けていたし、テレビで放送しないってだけではなくて、試合にすら出させてもらえない状況でずっともどかしく思っていたから。もちろん、ヨーロッパに残って挑戦し続けたいっていっていた川口のことももちろん応援していたけど、いくらGKは遅咲きといっても、28とか29とか体がノリに乗っている時期におそらく川口にとって一番楽しい時間であろう試合に出ることができないという状況。一番つらいのは川口本人だと知っていながらも、やりどころのない悔しさで溢れていたから。
10年前、川口能活は、横浜マリノスに入団。当時の日本代表正GK、松永成立との正GK争いや、サテライトにおける初めてのサブとしてのシーズン。プロサッカー選手としての新たな門出は刺激で溢れていたに違いない。グラウンドにグローブを叩きつける姿は記憶に新しいが、その悔しさをバネに確実に実力を身につけ、2年後の96年には、アトランタオリンピックで初めての世界大会を経験し、97年には初めての代表選出、さらに翌年には、世界最高峰の大会であるワールドカップ出場も果たした。
多くの職業は1年周期のサイクルを繰り返す。サッカー選手も例外ではない。Jリーグを例に取ると、2月くらいから自主トレやキャンプが始まり、3月にリーグ開幕。途中カップ戦等を挟みながら、年末にはシーズンオフ。リーグ日程やシステムは毎年少し違うものの、基本的な流れは毎年繰り返される。もちろん、年を重ねていくごとにその仕事のわからなかった部分がわかっていったり、よりクオリティーの高い仕事ができるようになるのは間違いないし、やがてそれを新しく入ってくる後輩達にフィードバックすることも義務である。でも、ふとした瞬間に、あの右も左もわからず、手探りで仕事をやっていて、怒られたり謝ったりしてばっかりだった新人の頃を思い出す瞬間がないだろうか。プロ7年目、2001年のシーズンを戦っていた川口能活も同じようなことを感じていたのではないか。海外でのプレーは川口にとってはもちろん、日本人GKにとって全くの未知の世界。ポーツマスへの移籍話を受けて、川口は、周りが刺激でいっぱいだった入団当時を思い出しながらぞくぞくしていたのではないか。
結局、憧れだったイングランドでも、出場機会を求めて移籍したデンマークでも、正GKを地位を長く固持することはできなかった。シーズンを通して出場することができなかったことで海外のサッカーをその両手で感じることはできなかったかも知れないが、技術的に成長したのは最近のプレーを見れば明らかだし、海外のチームに身をおくことで、コミュニケーション面や考え方など、人間的に大きな影響を受けたことも間違いなだろう。また、個人的にはデンマークでUEFAカップに出場できたことがかけがえのない経験になるのではないかと思っている。UEFAカップに出場して、しかも大活躍できたことでそのプレーをどこかで誰かが見ていてくれたかも知れない。ノアシェランが負けたパニオニオスの次の対戦相手はバルサだった。もしかしたらバルサの関係者が見たかも知れないし、今後もしワールドカップなどで川口が活躍して、興味を持ってくれるクラブがあれば、UEFAカップでの試合のビデオを入手する可能性は十分にある。99年の1月にカズがクロアチアのザグレブに移籍したそのきっかけの一つが、カズが活躍した97年のクロアチア戦(2ゴール)だったわけで、何がきっかけになるかわからないものなのだから。
川口はJリーグに戻ってきた。川口は常々自分のキャリアは欧州で終えたいということを雑誌のインタビューで述べていた。Jリーグに戻らないのは、「一度日本に戻ったら、もう二度と欧州への移籍のチャンスがないことがわかっているから」と。川口能活というGKは自分の目標をことごとく達成してきた男だ。それでも川口がJリーグに戻ってきたのは、残りのキャリアの中で、再び欧州移籍のチャンスを狙えるといった、何らか自信をつかんだからではないだろうか。真意は本人にしかわからないけれど、自分に課した目標の中で、まだ達成されていない「ワールドカップでベスト8」という目標。この目標をドイツで達成して、再び欧州に挑戦し、「正GKを奪取する」という目標を達成した川口の姿が見られる期待を抱いて見てもいいだろうか。